管理人の書いた、乙女ゲーの二次創作保管庫です。
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乙女ゲーとか映画とか書物を愛する半ヲタ主婦。
このブログ内の文章の無断転載は、固くお断り致します。
また、同人サイトさんに限り、リンクフリー、アンリンクフリーです。
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先日「VD2012」に投稿したユーイ×エンジュのSSがアップされました。
よかったら、読んでやって下さい。
(あの時点で、自分なりのコンセプトを託そうと思った時に、
ユーイしか考えられなかった。そういう意味では思い入れの
ある作品かもしれません)
今日、3月11日は、日本人にとって、忘れがたい日
です。後で静かに黙祷を捧げたいと思っております。
先日、ここで青山繁晴さんという方の新刊サイン会に
行ったと書きました。「ぼくらの祖国」という本です。
(いい本です。買わなくても、書店で立ち読みでも、
多くの方に読んでもらいたいです)
青山さんは、とっても気さくであたたかな方でしたv
(”ちゃん”付けで呼ばれちゃったv)
んで、ここから先は、萌えでも何でもない、かたい
話です。畳みますので、暇と興味のある方は、どうぞ。
よかったら、読んでやって下さい。
(あの時点で、自分なりのコンセプトを託そうと思った時に、
ユーイしか考えられなかった。そういう意味では思い入れの
ある作品かもしれません)
今日、3月11日は、日本人にとって、忘れがたい日
です。後で静かに黙祷を捧げたいと思っております。
先日、ここで青山繁晴さんという方の新刊サイン会に
行ったと書きました。「ぼくらの祖国」という本です。
(いい本です。買わなくても、書店で立ち読みでも、
多くの方に読んでもらいたいです)
青山さんは、とっても気さくであたたかな方でしたv
(”ちゃん”付けで呼ばれちゃったv)
んで、ここから先は、萌えでも何でもない、かたい
話です。畳みますので、暇と興味のある方は、どうぞ。
青山さんはサインに添えて「脱私即的(だっしそくてき)」
という言葉を、書いて下さいました。
この方の造語だそうで「私(わたくし)」を脱して
「(目的に)即(つ)く」という意味だそうです。
難しい……。
青山さんがお話されている動画などから、私なりに
解釈したこの言葉の意味は
「私欲を脱して、公(おおやけ)のための目的にいそしむ」
といったものかな、と。
実は、この「公(おおやけ)」という言葉、
まったく別の場所、別の文脈で読んで、
非常にはっとさせられ、自分がこれまで見聞きした
こと、教えられたことや、ネットで最近知り得たこと
など、いろんな要素と考え合わせました。
その考えたことの一端を書きますと……。
昔、テレビアニメ版の「シ/ティハ/ンター」の
EDに使われた「Get wild」という歌の歌詞に
こういうのがありました。
「誰かのために生きられるなら、
何も怖くはない」
作詞者がどういうつもりで、この歌詞を書いたのかは
わかりません。
ですが、今、私が思うに、人は”自分のため””自分らしく”
ばかりを、あまり追及というか、執着すると、かえって
弱く、また不満だらけの人間になってしまうのではないかと。
「私は、こういう人間なのに、わかってくれない」
とか。
「私は自分らしく生きたいのに、周囲が、社会が悪いから、
できない」とか。
(こういうのが、ニートとか、少子化とか、もろもろの
社会問題の精神的原因じゃないですかね)
自分以外の”誰かのために”というのは、それと正反対の生き方
でしょう。この”誰か”というのを広げると”公(おおやけ)”
ということになるのではないか、と。
あんまりくどくど言うのも、と思うので、この辺にしておき
ますが、今日という日に書きたいと思ったことでした。
何かお心に響くところがありましたら、幸いです。
という言葉を、書いて下さいました。
この方の造語だそうで「私(わたくし)」を脱して
「(目的に)即(つ)く」という意味だそうです。
難しい……。
青山さんがお話されている動画などから、私なりに
解釈したこの言葉の意味は
「私欲を脱して、公(おおやけ)のための目的にいそしむ」
といったものかな、と。
実は、この「公(おおやけ)」という言葉、
まったく別の場所、別の文脈で読んで、
非常にはっとさせられ、自分がこれまで見聞きした
こと、教えられたことや、ネットで最近知り得たこと
など、いろんな要素と考え合わせました。
その考えたことの一端を書きますと……。
昔、テレビアニメ版の「シ/ティハ/ンター」の
EDに使われた「Get wild」という歌の歌詞に
こういうのがありました。
「誰かのために生きられるなら、
何も怖くはない」
作詞者がどういうつもりで、この歌詞を書いたのかは
わかりません。
ですが、今、私が思うに、人は”自分のため””自分らしく”
ばかりを、あまり追及というか、執着すると、かえって
弱く、また不満だらけの人間になってしまうのではないかと。
「私は、こういう人間なのに、わかってくれない」
とか。
「私は自分らしく生きたいのに、周囲が、社会が悪いから、
できない」とか。
(こういうのが、ニートとか、少子化とか、もろもろの
社会問題の精神的原因じゃないですかね)
自分以外の”誰かのために”というのは、それと正反対の生き方
でしょう。この”誰か”というのを広げると”公(おおやけ)”
ということになるのではないか、と。
あんまりくどくど言うのも、と思うので、この辺にしておき
ますが、今日という日に書きたいと思ったことでした。
何かお心に響くところがありましたら、幸いです。
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